2009年12月20日日曜日

三筆


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2009年12月13日日曜日

藤原 行成

藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい、天禄3年(972年) - 万寿4年12月4日(1028年1月3日))は平安時代中期の廷臣。一条朝四納言の一。右少将藤原義孝の男。正二位権大納言。当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき、「権大納言の筆跡」の意)と称された。世尊寺家および、書道世尊寺流の祖。名前の読みは「ゆきなり」だが、「こうぜい」と有職読みすることも多い。
天禄3年(972年) 藤原義孝の息男として生まれる。(祖父・
一条摂政謙徳公藤原伊尹猶子となるも、祖父は同年中に薨去。)
天延2年(974年) 右少将であった父義孝が死没。
天元5年(982年) 
元服
正暦2年(991年) 日記『
権記』の記載が始まる(寛弘8年(1011年)まで)。
長徳元年(995年) 
藤原実方と口論になるも、冷静な対応をしたことが評価され、一条天皇蔵人頭に抜擢される。以後天皇の側近として仕える。
寛仁4年(1020年) 極官の正二位権大納言に至る。
万寿4年(1028年) 薨去(
藤原道長と同日)。 
藤原北家摂関流に生まれながら、出生後まもなく父祖を失い、一族の没落を受けて一時期は外祖父源保光の事実上の養子となったとされるなど、青年期は沈淪した。しかし親友源俊賢の推挙によって地下人から一条天皇の蔵人頭に抜擢されてから運が開き、恪勤精励を以って天皇(一条)・執政道長)の両方に信任された。能吏として四納言の一に列す。ただし、晩年一条天皇が次期東宮敦康親王を擁立して行成にその後見を期待したものの、行成は却って道長の意向を受けてその外孫である敦成親王後一条天皇)の皇位継承を一条天皇に迫ったとされている。もっとも一条天皇の説得の際に敦康親王が(傍流から即位した)宇多天皇のようになる可能性を示して一品叙位を図り、行成自身はその後も敦康親王の家司親王が亡くなるまで務め上げたことから、敦康親王を道長の政治的圧力から守るための行成なりの方策であったとも考えられている。
今に伝わる
摂関期の貴重な基本史料である日記『権記』(ごんき)を残した功績も大きい。『枕草子』『大鏡』などに登場し、逸話は多い。
当時の実力者藤原道長もその書道を重んじ、行成が『
往生要集』を道長から借りた際には「原本は差し上げるので、あなたが写本したものを戴けないか」と言われたという。
ちなみに、道長と同日に薨去したために、世間は道長の死で大騒ぎとなっており、彼の死については気に留めるものが殆どいなかったと言われている(『
小右記』)。
白楽天詩巻 - (白氏詩巻)(国宝)東京国立博物館
本能寺切 - (国宝)本能寺蔵
後嵯峨院本白氏詩巻 - (国宝)正木美術館
敦康親王関係文書 - (
御物)行成の日記「権記」の自筆原本の一部と推定されている。
書状 - (
重要文化財)個人蔵
など。いずれも、漢字体で、仮名は残っていないとされる。
小野道風藤原佐理と共に、三蹟の一人に数えられる。
和様書道の確立に尽力した、世尊寺流の宗家として評価される。
上代様の完成者。
彼の書風は、小野道風や藤原佐理よりも和様化がさらに進んだ、優雅なものである。



永観2年(984年) 従五位下
寛和元年(985年) 
侍従
寛和2年(986年) 
左兵衛権佐
寛和3年(987年) 
従五位上
正暦元年(990年) 備後
権介
正暦2年(991年) 
正五位下
正暦4年(993年) 
従四位下
長徳元年(995年) 
蔵人頭
長徳2年(996年) 
民部権大輔権左中弁左中弁
長徳3年(997年) 備前守
長徳4年(998年) 
従四位上右大弁東三条院別当
長保元年(999年) 備後守、
大和権守
長保2年(1000年) 
正四位下
長保3年(1001年) 
従三位敦康親王家別当、参議
長保5年(1003年) 
正三位
寛弘元年(1004年) 
美作権守、兵部卿
寛弘2年(1005年) 
左大弁、播磨守
寛弘4年(1007年) 
従二位皇太后宮権大夫
寛弘6年(1009年) 
権中納言
長和2年(1013年) 
正二位
寛仁元年(1017年) 
中納言
寛仁3年(1019年) 
大宰権帥
寛仁4年(1020年) 
権大納言
万寿3年(1026年) 
按察使


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2009年12月3日木曜日

ぬき名菘翁

貫名菘翁(ぬきな すうおう、安永7年7月3日(1778年7月26日) - 文久3年5月6日(1863年6月21日))は江戸時代後期の儒学者、書家、文人画家。
姓は吉井(後に家祖の
旧姓貫名に復する)。名は苞(しげる)。字は君茂(くんも)、子善。通称は政三郎、のちに省吾とし、さらに泰次郎と改める。号は海仙、海客、海屋、海叟、摘菘人、摘菘翁、菘翁など多数。別に方竹山人、須静主人、三緘主人などと名のっている。海屋、菘翁が一般に知られている。
徳島藩士で小笠原流礼式家の吉井直好の二男として徳島城下に生まれる。母は藩の御用絵師 矢野常博の娘。 はじめ木村蘭皐、高橋赤水に就いて儒学を学んだ。17歳の頃、母方の叔父 霊瑞を頼って高野山に登り学問に励み、山内の図書を貪り読んだと伝えられる。 その後22歳で、大坂の懐徳堂に入門し、中井竹山の下で経学や史学を学び、やがて塾頭となった。 文化5年頃、京都に移ると私塾 須静堂を開き朱子学を中心に教えた。 菘翁は自らの本分は学問にあると述べており、事実それによって生計を立てていた。 馮李華、陸浩が編纂した『左繍』、清の趙翼二十二史箚記』などを翻刻している。 晩年は聖護院付近に移り住み、名産の野菜 菘(スズナ、蕪の古名)に因んで菘翁と号した。最晩年になって下賀茂に隠居した。下賀茂神社に自らの蔵書を奉納したときの目録である「蓼倉文庫蔵書目録」には経学・史学を中心に3,386部(11,252巻)が記され、菘翁が学問を重視していた姿勢が窺われる。
詩 矢上快雨に詩文を学んでいる。45歳の頃に発刊されている文政5年版の「平安人物志」には
儒者・詩人として紹介されている。唐詩を好み、頼山陽と声律を論じたことは有名である。当時は絶句が流行しており、菘翁の漢詩は『文政十七家絶句』などの多くの絶句集に掲載された。『須静堂詩集』があったとされるが、なぜか現在に伝わっていない。俗説によると中島棕隠が菘翁の漢詩があまり上手でないのを見かねて刊行を制止したとする説があるが、はっきりしない。 「増註聯珠詩格」や徐文弼の「詩法簒要」を校刊し門弟の参考書とした。
少年期、西宣行に
米元章の書風を学んだ。 高野山では空海の真蹟に強く啓発される。その後も空海の書を敬慕し続けており、58歳のとき四国に渡り萩原寺(現 香川県観音寺市大野原町萩原)に滞在して秘蔵される伝 空海「急就章」(萩原寺蔵・重要文化財)を臨模している。後に墨拓としてこれを刊行しその跋を書いている。この跋には、空海の書は東寺にある有名な「風信帖」とこの「急就章」がもっともよいとし、その源流を奈良時代の魚養に求め、さらに魚養は唐写経に由来すると述べている。 当時の墨帖は粗末なものが多く到底手習いの元とすることはできなかった。菘翁は二王王羲之王献之)の正しい伝統を確実に把握することに努めた。このため古典や真蹟を重んじ、それが適わなければ法帖や碑版を蒐集し臨模をして学びとった。唐代の鄭審則の書についても、わざわざ比叡山に登ってこれを臨模している。 書風は当時流行の明清風唐様に対して唐晋風とされ、楷書欧陽詢虞世南褚遂良顔真卿に、行書は王羲之、褚遂良、草書孫過庭に影響されたとされている。日下部鳴鶴は菘翁が晩年なるほど筆力が強くなっていると驚嘆している。 書画で盛名をほしいままにしたが、特に書は市河米庵巻菱湖と並んで幕末の三筆に数えられ「近世第一の能書家」と称えられた。 最晩年 85歳の時に中風で倒れるが挫けず、筆を握り続け書画の制作に打ち込む。このときの作品を「中風様」と呼び、傑作とされる。
画 画は叔父 矢野典博に
狩野派の画法を学んだが、明の銭穀の「真景山水図」を観て以来、文人画に傾倒する。長じた後に大坂では鼎春岳濱田杏堂、京都では浦上春琴、中林竹洞、山本梅逸ら、当時一流の文人画家と親しく交流するうち文人画の技法を修得したものと推察される。還暦を目前に長崎では祖門鉄翁から南画の画法を受けた。 田能村竹田はその著『竹田荘師友画録』で頼山陽や野呂介石と並べて菘翁の「送行図巻」を激賞した。精緻な山水画の他にも墨竹や菊・松などの題材を好んで画いている。門弟に多くの優れた文人画家が育った。
また、菘翁は画論にも長けており56歳の頃、
伊勢浜地庸山の著した中国画論『山水高趣』に題言を寄せ、紀春琴の『論画詩』にも評を加えている。
旅 旅を好み、九州には三度赴いた。また
飛騨高山の自然を愛して61歳の時から3年間も滞在した。
門弟 ・貫名海雲・ 浅井柳塘・ 池田陶所・ 吉田公均・ 村田香谷 ・日根對山・
谷口藹山 越智仙心・ 内村鱸香・山田新良・ 円山大迂・小林卓斎・上 竹潭・山本梅荘・松田雪柯

貫名海堂(名を肅、1750年 - 1850年)という人物の書は菘翁の筆勢と非常によく似ているため市場でよく間違われる。菘翁の一族か門弟であるとされるが、播磨垂水の出身であるとされる点、菘翁より相当年長である点などがあり判然としていない。




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2009年11月30日月曜日

高野切

高野切(こうやぎれ)は、平安時代後期、11世紀に書写された『古今和歌集』の写本の通称である。『古今和歌集』の現存最古のテキストとして、日本文学史、日本語史の研究資料として貴重であるとともに、その書風は仮名書道の最高峰として古来尊重され、日本書道史上もきわめて重要な作品である。

『古今和歌集』を書き写したもので、当初は20巻(和歌1100首前後)からなっていた。現存するのはその一部である。料紙は、上質の麻紙で、表面に雲母砂子(きらすなご)を散らしたものを用いている。麻紙は経典の書写に多く用いられ、和歌集の料紙として用いた例は少ない。

「高野切」などの「切(きれ)」とは美術史、書道史、茶道などの用語で、元来巻物や冊子本であった和歌集、漢詩集などの写本を、鑑賞用とするため切断し、掛軸に仕立てたり、手鑑(でかがみ)と称するアルバムに貼り込んだりしたものを指す。こうした鑑賞形式は、室町時代以降、茶道の隆盛とともに盛んになった。こうして切断された紙片のことを「断簡」と称するが、高野切本古今和歌集のうち、巻九の巻頭の17行分の断簡は豊臣秀吉が所持していた。この断簡は後に木食応其(もくじきおうご)に下賜され、高野山に伝来したため、「高野切」の名が生じた。この巻九巻頭の断簡は現存し、大阪の湯木美術館が所蔵する。

『古今和歌集』は和歌の規範として、平安時代の貴顕には必須の教養とされ、尊重されてきた。そのため写本も多く、平安時代にさかのぼる写本だけで約60種にのぼると言われているが、その中でも最古写本であり、書道の手本としても尊重されているのが高野切本である。

高野切の筆者は古来紀貫之(882-946)と伝承されてきたが、実際は貫之の時代より1世紀ほど後の11世紀の書写である。

近代における筆跡研究の進展により、高野切の筆跡は3種に分かれることが明らかにされており、便宜上、「第一種」「第二種」「第三種」と称されている。

『古今和歌集』は全20巻と序からなるが、高野切本の現存する巻は巻一、二、三、五、八、九、十八、十九、二十で、残りの巻は発見されておらず、失われたものと思われる。このうち、巻五(個人蔵)、巻八(山口・毛利博物館蔵)、巻二十(高知県蔵)の3巻のみが巻物として完存し(3巻とも国宝)、巻一、二、三、九、十八、十九は断簡として各所に分蔵されている。巻一の巻頭部分の断簡は東京・五島美術館の所蔵である。

第一種

第一種の筆者は現存する巻のうち、巻一、九、二十を担当している。古今集の冒頭の巻一と最後の巻二十を担当していることから、3人の筆者の中でもっとも地位の高い人物と推定される。筆者については藤原行成の子の藤原行経(1012-1050)とする説が有力だが、確証はない。第一種の書風は21世紀の今日に至るまで仮名書道の手本として尊重されている。書風は、秀麗温雅で、字形直筆を主として、くせがなく、連綿(数文字を続けて書くこと)は控えめである。第一種と同筆または同系統の筆跡としては、大字和漢朗詠集切(諸家分蔵)、深窓秘抄(藤田美術館蔵)、和歌躰十種(東京国立博物館蔵)などがある。

第二種

第二種の筆者は現存する巻のうち、巻二、三、五、八を担当している。美術史家小松茂美は第二種の筆者を源兼行(1023-1074頃活動)と推定した。九条家延喜式紙背文書(しはいもんじょ)中の兼行の筆跡との一致など、さまざまな観点から、兼行を筆者とする説はほぼ定説化している。高野切の3種の筆跡のなかではもっとも個性が強く、側筆を多用した右肩上がりで肉太の字形に特色がある。第二種と同筆または同系統の筆跡としては、平等院鳳凰堂壁画色紙形、桂宮万葉集御物)、雲紙本和漢朗詠集(三の丸尚蔵館蔵)、関戸本和漢朗詠集切(諸家分蔵)などがある。

第三種

第三種の筆者は現存する巻のうち、巻十八、十九を担当している。筆者については藤原公経(?-1099)とする説もあるが、なお未詳である。書風は穏やかで、高野切の3種の筆跡のなかでは、もっとも現代風であると評されている。第三種と同筆または同系統の筆跡としては、粘葉本(でっちょうぼん)和漢朗詠集(三の丸尚蔵館蔵)、元暦校本万葉集巻一(東京国立博物館蔵)、伊予切(和漢朗詠集の断簡、諸家分蔵)、蓬莱切(未詳歌集の断簡、諸家分蔵)、法輪寺切(和漢朗詠集写本の断簡、諸家分蔵)などがある。


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2009年11月29日日曜日

常用漢字・当用漢字

常用漢字(じょうようかんじ)とは、日常の使用に必要なものとして選ばれた漢字をいう。

1923年(大正12年)、文部省臨時国語調査会が指定した漢字1962字とその略字154字。一部資料に1960字とあるのは略字によって2組が同字となるため。同年9月1日実施予定であったが、同日発生した関東大震災により頓挫した。

1931年(昭和6年)、「常用漢字表仮名遣改定案に関する修正」にて上記常用漢字表中の147字を減らし45字を増やして修正した1858字。

1942年(昭和17年)、国語審議会が作成した標準漢字表2528字のうちの常用漢字1134字。ほかに準常用漢字1320字、特別漢字74字。簡易字体(略字)の本体78字、許容64字があった。

1946年(昭和21年)、国語審議会が上記標準漢字表の中の常用漢字から88字を削り249字を加えた常用漢字表1295字案。この案は採択されず、同年、これを修正した1850字が当用漢字として公布された。

1981年(昭和56年)、公布された常用漢字表1945字。

常用漢字(じょうようかんじ)は、現代日本の漢字であり、文部省国語審議会(現文部科学省文化審議会国語分科会)の政策による「当用漢字」の後継。1981年10月1日に昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」の「本表」により発表された漢字使用の目安。「法令・公用文書・新聞・雑誌・放送等、一般の社会生活で用いる場合の、効率的で共通性の高い漢字を収め、分かりやすく通じやすい文章を書き表すための漢字使用の目安」(答申前文)を示す。1945字からなる。

常用漢字表の目的は、漢字使用の目安であって制限ではないため、強制力を有するものではない。しかし、義務教育の国語で読みを習う漢字であるため、漢字修得における制限となる。(さらに、漢字を適切に使うことに関しては、義務教育では学年別漢字配当表に示されている漢字にとどまる。)マスメディアのほとんどは、常用漢字のほかに使用可能な漢字を独自にまたは任意に選定し、常用漢字に準用している。一般的な新聞は、日本新聞協会用語懇談会が示す新聞漢字表に基づき、各社で多少手を加えて、漢字使用を運用している。

当用漢字との違い

字数の上では、以下の95字が増加した。削除された文字はない。

猿 凹 渦 靴 稼 拐 涯 垣 殻 潟 喝 褐 缶 頑 挟 矯 襟 隅 渓 蛍 嫌 洪 溝 昆 崎 皿 桟 傘 肢 遮 蛇 酌 汁 塾 尚 宵 縄 壌 唇 甚 据 杉 斉 逝 仙 栓 挿 曹 槽 藻 駄 濯 棚 挑 眺 釣 塚 漬 亭 偵 泥 搭 棟 洞 凸 屯 把 覇 漠 肌 鉢 披 扉 猫 頻 瓶 雰 塀 泡 俸 褒 朴 僕 堀 磨 抹 岬 妄 厄 癒 悠 羅 竜 戻 枠

字体を改めた字。

当用漢字字体表の「燈」が「灯」に改められた。

音訓が加わった字。

栄 はえる

危 あやぶむ

憩 いこう

香 かおる

愁 うれえる

謡 うたう

露 ロウ

和 オ

付表に加わったもの。

叔父・伯父 おじ

叔母・伯母 おば

桟敷 さじき

凸凹 でこぼこ

音訓が削られた字。

膚 はだ

盲 めくら

法令における使用

法令では常用漢字のみを使用することを原則として、常用漢字外の字は、語そのものの言い換えが行われるか、その字のみ平仮名書きするか、常用漢字外の字を使用しつつ初出の箇所にのみ振り仮名ルビ)を振る運用がなされる。

同音の漢字による書きかえは、戦後の当用漢字策定期に多用される。例えば「抛棄」を「放棄」と改める例などである。

平仮名書きは、機械的に行えるために多く使用されてきたが、同音異義語がある場合や、「だ捕」(拿捕)「改ざん」(改竄)「隠ぺい」(隠蔽)など語の一部のみ平仮名書きされる不自然さがあり、また講学上は漢字を使用するのが通常であるため、次第に避けられるようになりつつある。

初出箇所にのみ振り仮名を振る方式は、常用漢字使用の原則に沿いつつ、自然な記載をなしうるため、法令の条文の記載において、多く用いられるようになりつつある。平成に入って口語化された刑法・民事訴訟法等はいずれもこの方式によっている例である。

法令以外公用文においても、公用文作成の要領により、常用漢字のみを使用することを原則とするように定められている。

問題点と今後の傾向

日本語の乱れ」・「日本語の変化」にもあるように、言葉は生きた人間が使うものであるから、それ相応に時代に即して変化するものである。常用漢字は、「一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」であるが、常用漢字表制定から年月を経た現在の社会生活においてはこれ以上の漢字の知識を要することがある。したがって常用漢字に限った使用に固執すると、上記のような問題が出てくるのは必然である。この傾向はワードプロセッサが普及した1980年代から顕著になったと指摘されている。
2005年2月2日に国語分科会が「情報化時代に対応する漢字政策の在り方を検討することが必要」であるとした報告書を文化審議会に提出した。これを受けて、同年3月30日、中山文部科学相は常用漢字表の見直しの検討などを文化審議会に諮問した。同年9月から文化審議会国語分科会の漢字小委員会が常用漢字見直しの審議に入った。

その後、第6回漢字小委員会では、「『常用漢字』と『準常用漢字(読めるだけでいい漢字)』に分けることの是非」という文言を含む資料が配付された。また答申時期については、第15回漢字小委員会で2010年2月の新常用漢字表答申を目指すと述べられている。なお、その後の漢字小委員会で表の煩雑化に疑問の声があり、「準常用漢字」等の区分は最終的に行われなかった。2008年1月9日、都道府県名に使われている漢字で常用漢字に現在含まれていない「阪」「鹿」「奈」「岡」「熊」「梨」「阜」「埼」「茨」「栃」「媛」の11字を常用漢字に含めることを決めた。これは固有名詞は常用漢字表の対象としないのが原則であり、今後も維持するが、特に公共性が高い都道府県名について例外として扱ったものである。、また、その後、委員会で「韓」「畿」が追加候補に入ったが、これは都道府県名に準じる漢字としての位置付けである。

2008年5月12日の第21回漢字小委員会で第1次字種候補素案218字が発表された(220字と明記され、主要新聞社もそのように発表したが、実際には「闇」がデザイン差で2つ載っており、また既に常用漢字表に入っている「靴」が誤って入っていたため218字が正しい)。この時点では特定の語に限って常用漢字と同様に認める熟語が「別表」として付記されていたが、「なるべく単純明快な漢字表を作成する」という考え方に基づき、その後の6月16日の第23回漢字小委員会では第2次字種候補案が「別表」を統合した形で発表され、同日の審議でもその旨了解された。なお、第2次字種候補案では「本表に入れる可能性のある候補漢字」は188字とされた。また、「斤」が削除候補から外された。次の7月15日の第24回漢字小委員会では、7月31日の第39回国語分科会に提出する資料について「最終的な扱いについては前田主査に一任する」ことが了承された。また、国語分科会で字種候補案が了承されたとしても、今後、行われる音訓の検討過程で字種の出し入れの可能性があることも確認された。実際にその後の9月22日の第25回漢字小委員会では、追加候補に「刹」「椎」「賭」「遡」の4字種が追加され、「蒙」が削除された。これにより追加候補は191字となった。
また、文化庁は「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」を公開、パブリックコメントを行い、2009年3月16日から行われたものの結果がニュースなどで報道された。これは第31回漢字小委員会以降で配付された資料に基づくものである。それによると、新たに302字の追加希望があったという。最も多かったのは「鷹」の22件であるが、これは三鷹市白鷹町などの自治体組織票を行っていたことを公表している。続いて「碍」の20件は障害者団体が「障害」ではなく「障碍」と表記するよう推進運動を行っていることが大きく関与している。その他、6件以上意見があったのは「睦」「柿」「迂」「哺」「蘇」「棲」「疹」「楷」「揃」「叩」「濡」「吊」「悶」「牽」「挽」「捏」「膿」「嘘《噓》」「禄」であった。一方、削除希望の漢字も挙げられ、目立ったのが「鬱」「顎」であった。理由として画数が多いため、中学生に学習させるには難しすぎるという教育委員会の意見が目立っている。さほど実用的でないという理由から「聘」「憚」「憬」などが挙げられたほか、「埼」「阪」「阜」など都道府県に用いられる漢字も列挙された。今回のパブリックコメントでは約220件の意見が寄せられており、「敬語の指針(報告案)」の際の5倍に上っている。文化庁は、このパブリックコメントを加味した上で、再度指針案を練り直すとともに、秋口には2回目のパブリックコメントを行うとしている。

当用漢字(とうようかんじ)とは

昭和21年(1946年)11月16日に内閣から告示された「当用漢字表」に掲載された漢字を指す。1850字から成る。広義には、当用漢字表(昭21.11.16)、当用漢字別表(23.2.16)、当用漢字音訓表(同)、当用漢字字体表(24.4.28)及び当用漢字改定音訓表(48.6.18)から成る一連の法令によって定められた漢字政策全般を指す。

当用漢字は様々な漢字のうち制定当時使用頻度の高かったものを中心に構成されており、公文書メディアなどに用いるべき範囲の漢字として告示され、その後、教育制度日本新聞協会などのメディア団体を通じて普及した。また、複雑かつ不統一だった従来の正字体の一部に代えて、略字体を正式な字体として採用する試みも行われた。

第二次世界大戦前から漢字制限主義者表音主義者は、漢字は数が多く学習に困難であるから制限または廃止すべきであると主張し、また作家・山本有三土岐善麿らは漢字の乱用が軍国主義復活につながると主張し実際に文部省を中心に常用漢字表による用字制限などを試みた。しかし、民間や文学者日本語学者からの反対意見も強く、改革は行われないでいた。戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の国語国字改革の下、簡素化と平明さを目指して、戦時下に作成された標準漢字表内の常用漢字を基に当用漢字が策定された。「当用」という名称は、漢字の全廃を目的として、全廃まで「当面使用できる」という意味である。しかも従前は、答申すなわち単なる意見具申が内閣に提出されてから十分な期間、民間の討議に付されるのが一般的であったが、当用漢字については昭和21年11月5日に漢字表を公表後、わずか11日後の16日に内閣告示という極めて性急なものであった。

公害病水俣病救済運動で当用漢字にない「怨」という漢字を表した旗が現れ、マスコミもこれを報じ、次第に当用漢字に縛られない漢字使用がひろがりをみせた。(NHK教育テレビ知る楽」漢字事件簿 2009年)

その後、昭和41年(1966年)の中村梅吉文相発言(詳細は国語審議会#方針転換参照)により、漢字全廃ではなく「漢字仮名交じり文が前提」として、まず音訓の読みが大幅に改定され、昭和48年(1973年)に当用漢字改定音訓表が内閣告示された。これは既存の音訓表に357の音訓を追加し、新たに当て字熟字訓のうち日常生活で高頻度に使用される106語を「付表」としてまとめたものである。この時点で、それまでの制限的な色合いが大幅に緩和された。昭和56年(1981年)、当用漢字を基にしつつも、緩やかな「目安」である常用漢字表が内閣から告示され、当用漢字は廃止された。


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2009年11月28日土曜日

良寛

良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕 - 天保2年1月6日〔1831年2月18日〕)は江戸時代の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。俗名、山本栄蔵または文孝。号は大愚。

良寛は越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた。四男三女の長子。父、山本左門泰雄はこの地区の名主(橘屋)であり、石井神社の祠職を務め、以南という俳人でもあった(異説では越後国新津(現・新潟県新潟市秋葉区)の大庄屋・桂誉章の子)。名主見習いだった良寛は18歳のとき出家したが、この時期には妻(山本家家譜によると死後法名は釋尼妙歓)が居たとする説が最近出ている(この妻は出家前に離縁)。 出家後、玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚に師事し、諸国を廻る。その頃義提尼より和歌の影響を受ける。48歳のとき、越後国蒲原郡国上村(現燕市国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵、61歳のとき、乙子神社境内の草庵、70歳のとき島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内にそれぞれ住んだ。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。

最期を看取った弟子の貞心尼が『蓮の露』に良寛の和歌を集めた。良寛は和歌の他、狂歌、俳句、俗謡、漢詩に巧みで、書の達人でもあった。新潟県長岡市(旧和島村)の隆泉寺に眠る。

良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや、手毬をついたりしてよく遊んだという(懐には常に手毬を入れていたという)。名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子供達から凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)の字を書いた(現在でもその凧は残っている)。ある日の夕暮れ時にも、良寛は隠れん坊をして子供達と遊んでいて、自分が隠れる番になり、田んぼにうまく隠れ得た。しかし、日が暮れて暗くなり、子供達は、良寛だけを探し出せないまま、家に帰ってしまった。翌朝早くに、ある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たので、驚いて問い質すと、良寛は、「静かに!そんな大声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったという。このような類いの話が伝えられ、子供向けの童話などとして紹介されることで、良寛に対する親しみ深い印象が、現在にまで伝えられている。

また戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わした。また弟子の貞心尼に対してほのかな恋心を抱いていたといわれている。

いま生家跡には「良寛堂」が建つ。裏手には良寛の坐像。その視線の先には日本海が広がっている。沖に見える島影は、良寛の母のふるさと佐渡島である。

銅像

良寛堂・天領の里(天領の里の像はこども時代の良寛。共に新潟県出雲崎町)

隆泉寺(新潟県長岡市)

JR東日本信越本線長岡駅駅舎内(新潟県長岡市)

円通寺(岡山県倉敷市玉島)

辞世の句

「散る桜 残る桜も 散る桜」(ちるさくら のこるさくらも ちるさくら)

太平洋戦争時に、神風特攻隊の心情になぞらえた歌として有名になった。



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隷書

隷書体(れいしょたい)は、漢字の書体の一つ。「八分」「分書」とも呼ばれる。

程邈という下級役人が罪を得て獄中にあった時、隷書を発明しこれを献上することで始皇帝に赦されたという伝承があるが、これは俗説に過ぎない。戦国時代頃から日常に通用されていた筆記体が、秦代になって業務効率を上げるために公文書でも用いられるようになったものが、隷書だと考えられている。紀元前3世紀後半の「睡虎地秦簡」などに見られる、篆書を簡略化した過渡的な書風を「秦隷」と呼ぶ。

前漢前期には篆書から隷書への移行が進み、秦隷と平行して、草書のもととなる早書きの「草隷」・秦隷の要素を残した波磔の小さい「古隷」・波磔を強調した装飾的な「八分」など、多様な書風が展開されていたことが、「馬王堆帛書」「銀雀山竹簡」「鳳凰山木牘」などの帛書や簡牘類によって確められる。また、前漢中後期を中心とする資料「居延漢簡」では、これらの書風がすでに様式として確立されている姿を見ることができる。

新を経て後漢に入ると、筆記体としての隷書はさらに発展し、草隷より進んだ速写体である「章草」(「武威旱灘坡医牘」)や、現在の行書ないし楷書のもととなる書風の萌芽(「永寿二年三月瓶」)をも見ることができる。そして、隷書が盛んに通行したこの時代、安定した政権のもとで儒教の形式化が進むにつれ、隷書を用いて石に半永続的な記録を刻むことが流行した。それら後漢の刻石資料に見られる書風は、おおむね桓帝または霊帝の前後で二分することができ、その前半期には古隷が多く、後半期には八分が多い。これらはいずれも書道における隷書体の範を示すものとして、後世から最高の評価を与えられている。

漢王朝の衰退に伴って、書体としての隷書の知識や技法は失われていった。紙の発明と普及が、筆記の方法や形態に何らかの影響を及ぼしたことも考えられる。いずれにせよ、その後隷書が広く用いられることはなく、研究や表現の一形式として試みられるに留まっている。

左右の払いで波打つような運筆(波磔)をもち、一字一字が横長であるのが主な特徴。

字体が篆書と異なり横長になったのは、記録媒体柾目木簡に変化したためで、柾目を横切る横画に大きな負担がかかるためである。木簡・竹簡・帛書に書く場合は少々右上がりの字体も見られるが、石碑に彫る場合には字全体は水平になるよう彫り師が修正する。また書者も篆書のような硬筆を好まず、横画をドーム状に膨らませたり(乙瑛碑など)、楷書で言う「向勢」を取って字を引き締めたり(史晨碑など)、重心を字の左に寄せて長く太い波磔でバランスを取る(曹全碑など)、1字の中で筆跡の強弱を極端に変化させる(礼器碑など)、あえて古式な字体に戻しながらも波磔の妙と折衷させる(張遷碑など)といったように、字の書き方に創意工夫を加えるようになる。なお、波磔は1字につき1回しか認めないルールが確立していた。

篆書から隷書への変化は字形の違いが大きく、これを「隷変」と呼ぶ。隷書は主に直線と鉤状の折れ線によって成っている。ここに至って初めて筆画と筆勢が生まれた。それに従って、筆記のための省画や「氵」(さんずい)や「亻」(にんべん)などの部首の変形が広く行われるようになり、筆記に適した文字に変化した。その一方、隷書以降の文字は一見して字源を知ることが困難になった。

上述した現代用語としての隷書の定義は、北宋時代に欧陽修提唱したものである。 南北朝時代後期~唐時代には、「隷書」という用語は、現在の楷書を意味した。

乙瑛碑

乙瑛碑(いつえいひ、八分隷)の全名は『魯相乙瑛置孔廟百石卒史碑(ろしょういつえいちこうびょうひゃくせきそつしひ)』などという。建碑は永興元年(153年)。山東省曲阜孔子廟に現存する。碑文は、全18行、各行40字で、内容は、桓帝のとき、魯国の相であった乙瑛の申請によって魯の孔子廟に百石の卒史(そつし、漢代の書記の官名)を置いて廟を守らせることになった次第およびその関係者の功績を記したものである。結体(けったい、字形)は緊密で謹厳、筆力は雄健で波磔は力強く、漢代の隷書の中でも優れた碑である。

曹全碑

曹全碑(そうぜんひ、八分隷)の全名は『郃陽令曹全碑(こうようれいそうぜんひ)』という。建碑は中平2年(185年)。明の隆慶から萬暦の間に陝西省郃陽県の旧城から出土した。碑額は出土の時からないが碑文はほぼ完全に残っており、全20行で初行から19行は各行45字、末行に「中平二年十月丙辰造」の9字で建碑の年月日(185年10月21日)が明記されている。碑陰の文字はやや小さく、建立関係者の名が5列57行で列挙されている。現在は西安碑林にある。

碑は曹全(字は景完)の治績を記した頌徳碑である。曹全は敦煌の人で、光和7年(184年)郃陽令となり、黄巾の乱を収拾した功績により建碑された。数多い漢碑の代表的名品であり、完成された八分の技法を示すものである。他の碑と比較して女性的とする評が多い。石質が堅牢で文字が非常に鮮明であり、出土以後拓本によって多くの書人に学ばれている。天保年間に日本へ伝えられた。



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2009年11月26日木曜日

顔真卿

顔真卿(がん しんけい、 709年(景龍3年) - 785年(貞元元年))は、字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもある。
琅邪臨沂(
山東省)の顔氏の出身であり、先祖は孔子の弟子顔回。同族に後漢の武将顔良がいる。生まれは長安であり、『顔氏家訓』で知られる顔之推の五世の孫にも当たる。顔氏は、代々学問で知られ、また能書家が多く、世に学家と称された。
737年(開元25年)に
進士及第し、742年(天宝元年)に文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ、753年(天宝12載)に平原郡(山東省徳県)の太守に降格された。
時まさに
安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、顔真卿は、従兄で常山郡河北省正定県)の太守であった顔杲卿とあい呼応して、唐朝に対する義兵を挙げた。その後、756年(至徳元載)に平原城を捨て、鳳翔県陝西省)に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた。
しかし、長安に帰った後、再度、
宦官勢力や宰相の元載のような実権者より妬まれ、反臣の淮西節度使李希烈に対する慰諭の特使に任じられ、そこで捕えられた。李希烈は真卿を惜しみ、自らの部下となるよう何度となく説得したが真卿は断固拒否し続け、唐への不変の忠誠心を表す「天中山」を記すに至り李希列は説得を断念、殺された。この最期は非常に劇的であったため、後世忠臣の典型例として、靖献遺言に取り上げられている。
顔氏は顔真卿以前より能書家の家系として知られており、真卿も
壮年期張旭筆法を学んだという。真卿は初唐以来の流行である王羲之流(院体)の流麗で清爽な書法に反発し、「蔵鋒」の技法を確立した。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の楷書が、その特徴である。伝説では、顔真卿が貧しかった頃、雨漏りを見てこの書法を編み出したといわれている。ただしその字形は当時標準とされた楷書とは異なり、叔父・顔元孫が編纂した「干禄字書」の規範意識に基づく独自の字形を持つものも多く、正統的な王羲之以来の楷書の伝統を破壊するものであったため、賞賛と批判が評価として入り混じっている。これらの楷書は「顔体」(顔法北魏流)とも呼ばれ、楷書の四大家欧陽詢(欧体)、柳公権(柳体)、趙孟頫(趙体)、顔真卿)の一人として、後世に大きな影響を与えた。楷書作品には顔氏家廟碑、麻姑仙壇記、多宝塔碑、顔勤礼碑などがある。
また、
行書に関しては楷書と異なり、書の達人として王羲之に匹敵するとされており、文句なしの賞賛を受けている。
遺墨が多く残り、「劉中使帖」、「争座位帖」、「
祭姪文稿」が特に有名である。文集として『顔魯公文集』がある。
顔真卿の影響を受けた書家には、
弘法大師(空海)・井上有一・榊莫山らがいる(書に造詣の深い映画監督の実相寺昭雄も、顔真卿の影響を受けていると語ったことがある)。空海が唐に入った頃、韓愈が王羲之を否定して顔真卿を称揚する主張を行っていたため、空海が顔真卿の書風を好んだのではないかと榊莫山は推測している。日本でも中国でも、過去の歴史に於いては書道に於いては王羲之流が主流派であったため、顔真卿が評価されるようになったのは、書道界でも実は最近のことである。日本では長三洲が顔法の開拓者として名高い。



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